2017年03月17日
2種類の「やりたい」
「関東致知若獅子の会」にて、人間学を学んでおります。
今回は、坂田寛子講師による、森信三先生についての特別講話をお聞きしました。
森信三先生が、生きるか死ぬか、壮絶な経験を経てようやく至った「志」。
今まで使っていた「使命」「志」の言葉、その重さを感じた講話でした。
この「使命」(やりたいを貫くこと、命の使い方)について、最近感じていたことが言語化できたので、書くことにします。
「やりたい」には2種類ある
ひとつは「これが”やりたいこと”だ」と自分に思い込ませている「やりたい」。
もうひとつは、自分の感情に素直な「やりたい」。
二つの違いは、自分の感情がわかっているかどうか、なんじゃないかと思っています。
自分に思い込ませている「やりたい」
以前の私の行動基準は、自分の感情に蓋をしてでも「怒られることを避けるために”正しい”ことをする」。
“正しいことができていない他者”を見るたびに、自分を否定されている気がして、他者を変化させることをもってその不機嫌を解消しようとしていたのです。
いつも「私のやっていることは間違っていないだろうか」と自問自答していました。
人に賞賛されれば自信を持ち、否定されれば落ち込んで。他人の評価に左右される、感情の振れ幅が大きい定まらない日々でした。
「やりたい」と思っていたことが、”正しい”ことをする自分への執着だったとわかったとき、蓋をしていた自分の感情に対して大変申し訳なくなりました。
自分の感情に素直な「やりたい」
表現をしたいことも変わってきました。
例えば仕事だと、以前伝えたかったのは「そうじ(環境整備)は業績アップのための手段」。だから”正しい”方法論をメインに伝えていました。
今は「そうじ(環境整備)は社内において、お互いの違いを認め合ったり、人の想いを通訳するための手段」。
社長に、”みんなで育ち合える会社にしたい”という「やりたい」があるとき、そこに向かっていける人間関係をつくること(業績アップは副次的な「結果」)。
方法論を押し付けるのではなく、現場でみんなで手を動かす中ぽろぽろ出てくる「ここにあったんだ」「これはどうする?」から生まれる、「ああしたい」「こうしたい」を拾い上げて行く。
現場に「状態」として現れている事柄から、社内の問題を見つけ出す。
「わかっているけどできない」の理由を探して行く。
環境整備の観点から見れば、”正しい”やり方(正統派)では無いかもしれません。
でも少なくとも今の私には、これが他者は関係ない、自分の感情に素直な「やりたい」ことです。
ぶつかりながら見つけていく
森信三先生ですら、日本の教育に貢献すると思って高い志を持ってやっていたことを、生き死にの瀬戸際でまだ考え直すに至っている。
生きる目的の探求に、無理に終わりを作らずともよいと思えたのは、とても良かったことでした。
夢や志を持ったとき、「これが使命だ」と思えるものを持ったとき、その「やりたい」で何を満たしたいのか。
他者からの評価なのか、誤魔化さない自分の気持ちなのか。
今後も注意深く自分に向き合って行きたいなと思います。
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